欧米の人は、動いてはいるけど、ひどいソースっていうものでもがんがん公開している最終的には同じことを言っている気がするけど。
なんちゅーか、日本だと「完璧なものじゃないと公の場に出すのはやめたほうがいい」という文化が有る気がする。
ちょっと前にWikipediaのスイングバイの解説が、ロケットや宇宙知識が豊富なSF界の重鎮たちから「あの解説文はシュールだ」と批判されていた。という出来事があった。 「スイングバイの正しい説明を求む」_ にリンクがある程度集まっている。
オレはこの日記で以前から書いているけど、完璧であるが孤高であることよりも、メチャクチャで荒いけど知識を広める実行力があることのほうを評価している。
もちろん「間違った情報がさも正しいかのように広まってしまう」というのは大変な損失なので、可能な限り防ぐべきだと思う。だけど、それに囚われてしまって「ちゃんとした勉強をすれば理解できるだろ」と突き放して、世間に流通する間違った情報をバカにするだけの姿勢は前向きではないとも感じる。
(まぁ現実的に次から次へと間違った知識が出てくるのでキリが無いってのとか。正しい知識を分かりやすく誤解の無いように文章で書ける技能ってのは、メチャクチャ天才的な才能が必要なので人材不足ってのはありそうだな)
あと「自分に関する情報を隠すことによって評判を落とさないようにする」という減点主義の文化も関係していそう。
極端な例で言うと。歴史に名を残した偉人たちって、その功績に匹敵するぐらい悪評判とか痛い言動があったりすると思う。常人では無いからこそ出来ることってのも有るだろうな。(オープンソース方面に限ったエピソードだけど。リチャード・ストールマンの面白い行動とか、OpenBSDのtheoがメーリングリストでケンカしまくったりすることとか、djbの身も蓋も無い言動ってのは有名だったりする。どんな業界にも似たような話はあるだろう)
……とはいっても、「みんな羞恥心がブッ壊れた言動をしろ」と言っても説得力はあんまりなさそうだなぁ。
「小山田圭吾がクリコモの話しをしていた」みたいなターニングポイントになるイベントが起こると違うんだろうなぁ。
「ダサいソースや痛い言論を公開しても、減点主義で評判を落とさない雰囲気」みたいなのが蔓延するように仕向けるとか。
「今の自分だけがわかれば良い」というスタンスで書いたものは後で重荷になる:
「他人が読むために綺麗に書く」ってのがソースをオープンにするメリットなんだと思うけど。
どっちかというと「未来の自分が読んで分からなくなるのを防ぐ」というほうがメリットはデカイよな。
どっちかというと「未来の自分が読んで分からなくなるのを防ぐ」というほうがメリットはデカイよな。



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