ここで発想を逆転させてみよう。「完璧な人間像」というのは、「プラス評価の高い人間」ではなく「マイナス評価のない人間」であるとは言えないだろうか?から。
つまり、傷が深くならないうちにさっさと認めてしまえばいいのではないだろうか。プラスを積み重ねるよりまず先にマイナスをなくす。突っ込まれるポイントがなくなれば、何をしてもプラスになるのではないだろうか。
オレのメタ視点で自分自身を見た場合に、こんなに「完璧じゃない人間」が居るんだと実感することはよく有るなぁ。
オレの悪趣味なネットウォッチ行動を見て、しかめっ面に成っている人は真面目文化として非常に正しい反応をしていると思うし。(面白がっている人は、吉田豪や大槻ケンヂのような視点で面白がっているのではないかと想像している)
あと、ブラックマジックを気にしすぎていて他者に対して呪いの言葉を吐いている人には、あえてブラックマジックの言葉を「鏡」として投げかけることがたまにある(実はこのセンテンスもそうだ!)。その手の「他者の視線を気にしすぎる人」は、必ずその人がそう成りたくないポイントだけを邪推して反応してくる。
具体例を挙げると。「モヒカン族とムラ社会というのが有りますよ」という分類ネタをやったときに、ある人は「学者肌の空気の読めない技術者をバカにしているのか」という意味の反応をしてきたり。ちがう人は「ムラ社会文化は古くさくて閉鎖的だと批難している。とてもまともな精神ではない」という意味の反応をして来た。他にもいろいろな着目点の反応が有って興味深かった。多分、前者の人は「空気が読めない」ということを気にしていた人だと思うし、後者はその人が持っている「ムラ社会文化のデメリット」を気にしていたんだと思う。
実はオレが「あるあるネタ」を書くときに心がけていることがあって。どっちが良くてどっちが悪いという個人的な価値観を出来るだけ脱脂して、読む人の心の状態が映る「鏡」のような役割をするような文章に成るようにしている。(実力不足で実現できていないことも多々有るけど)
(まぁ本当はネタというのは、極端な価値観からくる偏った押しつけのほうがインパクトが有って面白かったりするんだけど。平凡な人のblogよりも、偏った人のblogのほうが読んでいて面白いのと同じで)
さて話を戻すと。
Piroさんは
「理論的に矛盾なく筋が通った賢くてかっこいい強固な自分、ボロの出ない自分」という人間像に対して「マイナス評価」をする価値観を持った他人が居たらどうするのだろうか?
おそらく他人の価値観と自分の価値観の優先順位を評価して、どちらかを不採用にするのだろう。
じゃあ「おまえは世間の「評価」を気に留め過ぎる」というマイナス評価が有ったら? それを採用すると気に留め過ぎることになるし、不採用だと気にしなさすぎだ。
他人からのマイナス評価を気にしすぎて、自分が自分に対して持ちたいプラス評価をないがしろにするのは無意味だろう。「自分がこうしたいと思ったこと」が、ある価値観の他者からマイナス評価を受けることを気にしてどうするのだろう。
もちろん「こうしたいと思ったこと」が、実は世間体とかに影響されて、自分が自分についた都合の良い「ウソ」だというのであれば、それは考え直した方が良いと思うけど。それは別の話なので省略。
自分が行動することによって「また○○がどうしようもない事をしているよ。本当に○○はダメな奴だな」とブラックマジックを吐く人は必ず存在する。というか、そういう人が周りに居ないのであれば、それは世界の多様性が失われていて脆弱である証拠だから、行動範囲の狭さを疑った方が良い。



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